歴史が変わった日から1年

今日で東日本大震災から1年になります。いまだにもう1年が経過したとも信じられず、でもあえて今まで筆をとれなかったので、今日ここにそのとき思ったことを書いて残しておこうと思います。

1年前のあの時、私は移動中で電車の中にいました。突然電車がストップして、襲ってきたのは激しい揺れ、何が何だかわからない状況でした。外を見るとすべての家や建物、電信柱が揺れている、それで地震が起きているということをやっと理解しました。

揺れが少しおさまってもすぐにまた揺れが来て、これは関東大震災だと思いました。実はmarumoは埼玉にいたのですが、東京の直下地震だと思い、すぐに閉じ込められている電車から家族にメールをしました。電話をかけてもつながらない、何が起こっているのかわからない、こんなことは2001年の9.11以来でした。理性が働かず、ただただ感情で不安に慄いている、それだけでした。

それから10数分後、どうやら震源地は東北の沖合らしいということがわかりました。それと同時にこれはただ事ではないと思いました。東北が震源で関東の比較的土地盤の強い埼玉がこんなに揺れるとは、未曽有の大惨事であることは容易に想像できました。

相変わらず安全確認を行っているという電車に閉じ込められたまま、数十分後に目に飛び込んできたのは水が引いていく海でした。ワンセグを持っている同僚がいて、それを見せてもらったのです。そうやっている間にも、繰り返し大小の余震が電車の車両を襲います。日頃理性で考えているような思考は全く麻痺してしまい、ただただおびえている自分を見て、情けなくもあり、無力でした。

唯一ほっとしたのは、電話はつながらなかったにもかかわらず、家族からメールが返ってきたことでした。「こっちは無事だよ」それだけで全身から力が抜けました。

電車から出してもらえたのは地震発生から1時間半程度が経過していたころ、もう電車の運転再開の見込みはないとのことで、線路を通じて最寄りの駅まで行きました。といってもここがどこなのかすらもわからない状況で、東京まで帰らなくてはなりませんでした。持っているのは限られたバッテリー残量のiPhoneのみ。コンビニで食料を少しだけ買って、夜通し歩くことも覚悟で東京まで戻ろうと決意しました。

結果的には運よくタクシーが途中で拾えたため、猛烈な渋滞にもかかわらず、なんとかバスや歩きを経てその日中に自宅に帰ることができました。道中で目にしたのは、皆が幹線道路を歩いて自宅に向かっている、時々声を掛け合いながら、パニックになることもなく、お互い情報を提供しあいながら整然と歩いている姿を見て、とても感心したのを覚えています。

家に帰って、家族に会えた時は、本当に安心しました。夜もその日からしばらく余震が起こるたびにおびえて食べ物ものどに通らない日々が続きました。何と言っても福島の事故は衝撃的で、marumoの会社(外資系)からは自宅での勤務命令が出て、「放射能が危険なので外に出ないよう」とも言われました。

計画停電、物流の輸送の供給遮断等々、首都圏は混乱に見舞われました。marumoの会社も、ビジネスを通常の状態に戻すのに時間がかかりましたが、4月中旬にはほぼ正常に戻りました。そして今、あの時のことは夢だったのではないかというくらい、遠い過去になりつつあります。でも地震津波の映像を見るたびにあの感覚がよみがえってきます、それは恐怖はすべてを凌駕して、理性を麻痺させてしまうということ、人間は自分の想像を超えたような事態にはきわめて無力であること。

しかし私たちはそれでも生きてこれを語り継いでいかねばなりません。それこそがあの場あの瞬間に生きた私たちの義務であり使命だと思うのです。


最後に、東日本大震災で亡くなられたすべての方のご冥福をお祈りします。安らかにお眠りください。